「紡ぐ」ということ
以前もちょこちょこ書いていた、ずっと考えていたことを書きました。
が、正直くどい話なので、興味ない方はスルーしてください。
もう随分前から、モヤモヤ抱えていたことがある。
それは「紡ぐ」「糸を作る」ということが、恐ろしいほど世間に認知されていない事実。
「紡ぐ」という言葉自体は、キャッチコピーのように常的に使うかもしれない。
けれど、
「紡ぐって具体的にどうするの?」
「糸ってどうやってできると思う?」
そう問われて即答できる人は、どれくらいいるだろう。
現代において糸は「買うもの」。
手芸屋、もしくは100円ショップに並んでいる物。
だから作品の説明をすると、まず「糸から作ってます」というくだりで?マークが頭上を泳いでいる。むしろ「手編みです」と言ったほうが反応の大きいときもある。
なぜか。
単純に「糸を作る」、ひいては「羊の毛を洗う」なんてほとんどの人が見たことがないから、イメージできないのだ。
「編む」はまだわかる。「織る」もテレビや社会科見学で見たことがあるだろう。もしかしたら「羊の毛刈り」もテレビで見たことがあるかもしれない。でもそれが100円ショップに並んでいる毛糸と結びつく人はどれだけいるだろう。
「羊の毛、って毛糸になるんですね!」と言われて愕然としたことがある。
「羊」のイメージも同じ。
判で押したように「羊ってフワフワでかわいいですよね~」と言われても、きっと紡ぐ人のほとんどが共感できないはず。
生きてる羊の毛・・・特に根元を触ると油でじっとりしている。目つきも良くないし、なに考えてるかわからない。刈った毛は牧場臭がぷんぷんだし、汚れがひどければ、洗って紡げるようにするまで一苦労。
実に多くの人が「ファンタジーとしての羊」をイメージしているのだ。
そもそも「紡ぐ」人は多くない上に、刈った羊の毛・・・フリースを主体にしている人は少ない。イベントなどでも綺麗に洗った毛は売れると聞くが、汚れた状態では難しいらしい。もちろん魅力にハマって羊を飼う人もいるが、ごくごく少数派
「お手軽」蔓延の現代では、それは「面倒な」ことであり「よけいなこと」らしい。
幸いなことに、最近では周りの友人知人が、私の代わりに作品の説明、素材の来歴を説明してくれる。マンクスロフタンという羊のオーナーになっていることや、羊の種類がさまざまあることまで!
それに加えて世田谷アートフリマでは春秋、実演フロアで参加させていただいている。ニュージーランド製の紡毛機を踏みながら、時には洗った羊の毛・・・ステープルを見せ、ほぐし、紡ぎ、糸ができるまでを説明する。
もちろん知ってもらえるのは嬉しいし、そういう場をいただくこともありがたい半面、ずっと「どうして自分の作品を売るのに、製作過程の説明をしなければならないのか?」というモヤモヤを抱えていたのも事実。
ぶっちゃけ、アクセサリーや布小物の人は、そういう説明、不要じゃないですか。
その道を選んだのは自分だけど、どうして?という気持ちは常にあり。
けれど自分がしなければ誰がするんだ、啓蒙活動!と思う気持ちも常にあり。
いわゆるジレンマですね(^^;
実際そのせいで、作品そのものより技法の紹介がずっと前に出ていた気がします。
もちろん今も迷い、悩み、試行錯誤ばかりですが、それでも少し気楽になったのは、上に書いたことを感じているのが「自分ひとりではない」と知ったから。
昨年から今年にかけて、紡ぎの先輩、ヒツジパレットのスタッフの方、そして世田谷アートフリマでお世話になっている生活工房の方と話をしました。
そこで話題に出たのが「紡ぐという、糸を作るという意味が通じない」ということ。
「食育」があっても「衣育」がない。
自分たちが着ているものがどうやってできているのか?素材がどこから来ているのか?どうしてこんなに衣料品が安いのか?
食べることは産地まで気にする日本人が、そのことを気にしないアンバランスさ。
そんな会話を交わして思ったのは、これはもう、自分の作品云々の話ではない。
皆が口を揃えたように、必要なのは「啓蒙活動」。
だから何をどうしたい、と考えるのはこれからですが、今まで曖昧模糊としていた「形にするもの」と「発信していくもの」を考える手がかりを得たような気がします。
なんだか完全独り言文章ですが、実はこれ、かなり根深い問題だと思います。
そしてそういう危機感を持った人たちがいることを、意識してもらえたら嬉しいと思います。
ということで今年も啓蒙活動、継続してまいりたいと思います。
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